随筆「灯影に映る日常」

寒々しい夜の帳が下りると、家々の窓から漏れる光が、まるで孤独に震える魂たちの手紙のように街路を染める。私はいつものように台所に立ち、冷凍庫から取り出したうどんと豚肉、そしてキャベツを手にした。この単調でありながら変わらぬ日々の行為に、妙に心を打たれることがある。鍋の湯気がゆらめくたびに、自分が生きている証拠を一瞬見るような気がするのだ。

包丁を握る手元に目を落とせば、その刃先が時間を刻む時計の針のように、日々の営みを淡々と断ち切り、また繋ぎ合わせる。日常の細やかな所作――それは決して派手ではないが、どこか美しい。三島由紀夫が言うように、「美とは力であり、静謐の中に潜む激しさ」であるならば、私の日常の中にもまた、微かで小さな美が宿っているのだろう。

外を見れば、冬の星々が薄く瞬き、京都の古びた街並みが静かに息をしている。この町の空気には、古い寺院や木造の家々が積み重ねた時の記憶が染み込んでいるように思える。それは、私の人生が生きた記憶を紡いでいく過程と重なり合う。時折、我が家の片隅に鎮座する愛鳥、「はる」と「ゆき」の寝息が聞こえてくるようである。そのささやかな音が、まるでこの生活が無駄ではないと囁きかけてくるようで、不思議と安心する。

定年を迎えた私は電気主任技術者として長年の経験を振り返り、なおも電気保安管理に人生を捧げている自分を見つめる。老いたとはいえ、この身にはまだ、社会の一端を支える責務が宿っている。工場や商業施設の電気設備の点検を終えた帰り道、ふと自分の仕事が「影の力」であると実感することがある。普段目に見えることはないが、それなくしては暮らしの基盤が成り立たない。電気という目に見えぬものを相手にする仕事には、どこか人の心を繋ぎとめる詩的な側面があるのかもしれない。

退職後も、設備の動作確認や地絡継電器のチェック、あるいはスイッチギアの点検に携わる中で、目には見えないエネルギーの流れが生活を支える様を意識する。電流が静かに機器を駆け巡り、私たちの暮らしに光をもたらす。その影の働きを見守ることは、まるで古の神々が火を守るような行為に思える。かつて三島が剣を通して美を求めたように、私は工具を握り、日々の中に美と責務の意味を探している。

料理ができあがり、食卓に並べる瞬間、まるで小さな儀式のようだ。照明の柔らかな光が料理の表面に宿り、それが一瞬だけこの世のものではないような神聖さを帯びる。湯気が立ち上るその姿に、消えゆくものの美しさを覚える。この小さな一瞬が、私の平凡な日々にしっかりと刻まれている。

私の人生は、京都の一角に存在する小さな物語に過ぎない。けれど、この物語が、私にとって、あるいは私の家族にとって、ひとつの完全なる世界であることは疑いようがない。そしてその傍らには、私が定年後も守り続ける電気の光が、静かに脈打っている。