人間の営みというものは、時に、目に見えぬ配線のようなものだと思うことがある。
たとえば、今の私がしている仕事――電気設備の管理という行為が、かつて私自身が好んで書き残したブログの言葉と、微細な論理線で繋がっていたことを、私はある日ふと気づいた。
これは単なる再就職の話ではない。いや、むしろ人生そのものの修復作業に似ている。壊れた回路、劣化した導体、緩んだ端子、それらを一つ一つ点検し、必要なものだけを残す。そうして私は、定年というひとつの通電停止を経て、再び通電するに至ったのだ。
日々の仕事は、時に単調で、時に神経を研ぎ澄ませるような緊張を伴う。
だがこの仕事には、明確な「手応え」がある。回路が正しく繋がり、異常がないと確信できる瞬間、私は人間の手が自然と向き合える数少ない実感の中にいる。
体を動かし、頭を働かせ、注意力を保ち続けることで、知らず健康も維持される。それは計算通りに見えて、どこか奇跡的でもある。医師のように誰かの命を預かっているわけではないが、工事や設備の中で、不意に訪れる「何か」を未然に防ぐのは、ある種の予言者のような感覚すらある。
この再就職には、明確な目的と意味があった。
それは論理というより、必然だった。選択肢など最初からなかった。
しかしそれすらも、今の私には一種の張り合いとなっている。若い頃に積み残した未来への布石を、今になって一手ずつ置いていくような感覚。
長期的な戦略はときに、何十年も先を読む。私は今、その中盤戦に位置しているだけなのだろう。
ただし、現状に満足しているとは言えない。
最大の課題は「安全」だ。年齢を重ねた肉体は、油断という名の劣化を許さない。過信せず、過小評価もせず、自身の状態を正しく把握し続けること。
それは設備点検の技術とまったく同じだ。
自分の感覚という装置を、自分で点検できるか? そこに狂いがあれば、最悪の事態が訪れる。感電、落下、事故――そうした危機は日常のすぐ隣に潜んでいる。
これまでの私は、どちらかといえば一匹狼に近かった。
誰かと組むより、一人で段取りし、一人で終える。そのほうが早いし、確実だと信じていた。
だが、最近になって考えが変わり始めた。
他者の存在が、自分の見落としを補うことがある。対話の中にヒントが隠れていることがある。そして何より、仕事の先にある交友という光が、人生の後半をあたたかく照らしてくれるのではないか、そんな予感がしているのだ。
不思議なもので、孤独の中にいるときは誰かと話すことに疲れ、誰かといるときは一人の時間が恋しくなる。
その均衡を保つ術はまだ完全に身についてはいないが、それでも最近では、同業者とのちょっとした立ち話が楽しみになったりしている。
私は自分の中に、ある種のスイッチが切り替わる音を感じることがある。
それは、ただの気のせいなのかもしれない。だが、そのスイッチが切り替わる瞬間、世界が一段階クリアに見えるようになる。
論理が整い、因果が通り、意味が立ち上がる。
仕事とは、単なる労働ではなく、人生における回路の再構築である。
それを今、私は自分の手で確かめている。かつてのブログに記した思索の残骸が、いま一つずつ「通電」していくのを、私は感じている。
そしてその先に何があるのか――
それは、まだ通電されていない未来の、ミステリアスな暗がりの中にある。